国内再統一の後、兵農分離、刀狩が行われた。これ以前にはいわゆる武士でなくとも成人男性が平素から帯刀していた習慣があったことは、日本人と剣術とのかかわりの深さを認識する上で重要である。剣術において、戦場ではなく日常での使用が前提とされたものが主流になるのはこの時期からである。
近世(江戸時代)
介者剣術から平服、平時の偶発的個人の戦いを想定する素肌剣術に変わったとされる。 また、平和な江戸時代において、禅など心法に重きをおく流派がでるなど変化していった。
殺人刀と活人剣
殺人刀(せつにんとう)と「活人剣」(かつにんけん)とは元来この言葉は禅の『無門関』、『碧巖録』などの公案での用語である。
上泉信綱が1566年(永禄9年)2月に肥後の丸目蔵人佐に与えた印可が「殺人刀・活人剣」とあり、また一刀流の本目録十四「まんじ・殺人刀・活人剣」という名前がみられるように武術に対して他の禅の用語と同じく大きな影響をあたえた。
兵法家伝書
江戸初期の柳生宗矩が兵法家伝書において次のように禅とは異なる意味で使用した。
「一人の悪に依りて、萬人苦しむ事あり。しかるに、一人の悪をころして萬人をいかす、是等誠に、人をころす刀は人をいかすつるぎなるべきにや」、「人をころす刀、却而人をいかすつるぎ也とは、夫れ亂れたる世には、故なき者多く死する也。亂れたる世を治めむ爲に、殺人刀を用ゐて、已に治まる時は、殺人刀即ち活人劔ならずや。こゝを以て名付くる所也」
仇なす悪に打ち勝って確実に殺すのが殺人刀であって、その悪を殺したゆえに万人が救われ「活きる」のが活人剣だと言う。兵法、すなわち人を刀で切る行為にはこの両面がないとならないと諭し、日本の剣術が殺人技法にとどまらず昇華したことを示す。 ここで、臨済宗の沢庵宗彭が柳生宗矩に「不動知神妙録」を与えたことにより江戸柳生で剣禅一致が説かれた結果として「刀法の尾張柳生」に対して「心法の江戸柳生」と言われたことは史実であり、禅の考え方が影響を与えたことは否定できない。
なお現代の新陰流に伝わる、柳生石舟斎宗厳の書に「当流に構える太刀を皆殺人刀という。構えのなき所をいずれも皆活人劔という。また構える太刀を殘らず裁断して除け、なき所を用いるので、其の生ずるにより活人劔という」とある。
上記に挙げられている新陰流の刀法および兵法の武術的解釈では、活人剣と殺人剣という言葉に別の意味が存在する。新陰流には「転(まろばし)」と呼ばれる「相手の仕懸に対して転じて勝つ」根義がある。まず構えずに(新陰流ではこれを「無形の位」と呼ぶ)相手に仕掛けさせ、それに応じて後の先を取るわけである。ここでの活人という言葉は「相手(すなわち人)が動く」という意味で用いられている。この場合の活人剣とは逆の意味で、自分から構えを取って斬り込むことを殺人剣と呼ぶ。また「転」の根義により「浅く勝つ」こと、主に小手へ小さく鋭く打ち込む斬撃が多用されるため(技法、魔の太刀、くねり打ち、一刀両段、西江水などにも見られるが、最も典型的な技法は「転打ち」である)、結果として相手に致命傷を与えず勝つことも多く、その結果として「活人剣」と呼ばれることもある。
撓、竹刀と防具の発明
古くから多くの流派で独自の袋竹刀(ひきはだ撓)や小手を使用した稽古は行われていた。ただし多くの場合形稽古が中心であり、試合稽古は技が乱れる、理合の習得が出来ない等の理由によりあまり行われていなかった。江戸中期?後期にかけて現在の剣道の防具と竹刀の原型が直心影流で発明され、続いて中西派一刀流(小野派一刀流)でも発明された防具と竹刀を採用した。
その後急激に竹刀と防具着用の試合稽古が流行し、各流派で試合稽古が行われるようになった。逆に尾張藩の新陰流や岩国藩・長州藩の片山伯耆流 、弘前の當田流などといった、木刀や袋竹刀での形中心で防具着用の試合稽古を取り入れなかった流派には門弟の数に著しい増加はなかった。また流祖以来試合を禁じていた流派が、やむなく試合稽古を行うようになった記録等も残っている
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